今はもう

報道ステーションで、ゆうこさんについてオンエアされるというので、22時からテレビの前で待ち構えていました。特集名は「さよなら〜夫婦の物語」。小林桂樹さん、今敏さんのエピソードにつづいて、ゆうこさんの話がありました。


いきなり、ゆうこさんの写真(水色の着物姿)が映し出されたあと、穂村弘さんを相手ににこにこてきぱき話してるゆうこさんの映像が流されました。もう絶句でした。そして、紅さん、淳さんの落ち着いたコメントにつづいて、目を真っ赤にして鼻をすすりながら語る永田さんのアップ。先日の「おはよう日本」でのオンエアのときよりは、アナウンサーのゆうこさんの歌の朗読がまともだったなあ。


それにしても、映像というのは残酷だ。あんなふうににこにこと話しているゆうこさんは、今はもういない。それなのに。映像は、あまりにもリアルで。

さよなら〜夫婦の物語
http://www.tv-asahi.co.jp/dap/bangumi/hst/feature/detail.php?news_id=10566

歌人河野裕子さん

現代女性歌人の第一人者である河野裕子さん。科学者の夫・永田和弘さんもまた歌人だ。宮中での歌会始では、夫婦で“選者”を務めてきた。2人が出会ったのは、京都の学生時代。【たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか】。和弘さんは「“君”が誰なのか良くわからなかった。彼女は、朗らかだったけど、折れそうな感じ。『俺がいてやらなければ』というのは非常に大きかった」と話す。そんな和弘さんへの裕子さんの口癖は『鰯と秋刀魚の区別がつかない』『私が面倒をみてあげないと、どうしようもない』だったと長男の淳さんが明かす。2000年9月、裕子さんは乳がんと診断され、その後、転移も見つかった。和弘さんは「めちゃくちゃな時期があった。彼女を制御することが、自分にも彼女自身にも出来なくて。地獄だった」と話す。命の期限を感じたとき、裕子さんの心残りは、和弘さんのことだった。

裕子さんは、薬の副作用で食事が出来なくなっても、台所に立ち続けた。【ごはんを炊く 誰かのために死ぬ日までごはんを炊けるわたしでゐたい】。裕子さんを支えたのは、40年間密かに抱き続けた想いだった。淳さんは「父は3歳で母をなくしているから、母親の愛情みたいなのが受けられない人だった。『私が、この人を守ってあげなくては駄目』という意識が母にはあった」と話す。生前、裕子さんは「私がしなければならないことは、永田和弘という人を一日でも長生きさせること」と話している。和弘さんは「裕子さんは、『自分は生きられないけど、あなたが生きていれば、私が生きていることになる』と思っていた」と話す。亡くなる前日、家族にお別れを告げた裕子さん。そのときのかすかなつぶやきを和弘さんは書き留めた。
【さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ】
8月12日、乳がんにより死去(享年64)