遺体 明日への十日間

映画館のレディースデイ1000円の日なので、久々に映画館いってきました。みたのは、石井光太さんの『遺体 -震災、津波の果てに-』を元にした映画「遺体 明日への十日間」。54席の小さい部屋での上映で、観客は12名程度。たぶん私が最年少(笑)。東日本大震災の直前の日常的な街の風景からはじまった画面は、地震について文字でのみ表現したのち、地震後へ一転します。舞台となった釜石市は、海側と山側に街が別れているらしく、その山側に住むひとたちが、「海側がさっきの地震で大変なことになったらしい」と騒然としてるシーン。電話も電気も不通な状況で、さあどうなるのか。


映画の中では、大地震そのものについてはテロップで語るのみでしたが、その後の余震についてのシーンが何回かありました。真っ暗な映画館のなかで、すさまじい音とともに揺れている映像をみていると、つい振動もおきているように錯覚してしまいました。実は、この映画をみた一番の収穫は、このことだと感じています。職場とか自宅といったいわば「ホーム」ではないパブリックな場所(今回で言えば映画館)で、知ってるひとがまわりにはひとりもいなくて、しかもまっくらな状態でがたがたと激しい地震がおきるとどうなるか。ほんの十数秒の映像だったのに、それは想像してたのとは全然違って、かなりショッキングな体験でした。


さて。映画の内容について。映画は、お仕事としてこの災害に向き合ってるひとについて時系列に淡々と事実を積み上げており、ひとつひとつのエピソードも短めです。私も、人の流れのさばきかたなどのシーンにおいて、ついつい仕事目線でみていました。「遺体安置所である」という設定については、はじめのシーンでかなり衝撃を受けましたが、被災されたかたがインタビュー記事のなかで「(膨大な遺体を目の当たりにすると)あれはもう景色です」とおっしゃっていた意味が少しわかったきがしました。野戦病院よりもさらにすさまじくさらに重々しいあの光景はたぶんもう忘れられないと思います。


あと、個人的に強い印象をうけたのは「弔いの方法」について。日本人って、仏教に帰依していなくても、遺体に対して手を合わせるでしょ。もちろん自分も当たり前のようにそうしているけれど、映画を見ながら、それって本当にこれでいいんだろうかとちょっと自信がなくなりました。ってのは、物語のなかで、お坊さんが遺体安置所に来て下さってお経をあげてくださるシーンがあるのですが、浄土真宗になじんでる私にとってそれはまったく聞いたことのないお経だったので、違和感を覚えてしまいました。あとでテロップをみたら、どうやら法華経をあげてくださってたようなのですが、プチ仏教徒の私がこういう違和感を覚えるくらいなんだから、仏教以外の信仰をもつひとにとっては、もっと違和感だろうなあと。こういうことって、イイ悪いじゃなくて、意外と大事な問題じゃないのかなあとおもったのでした。


もうひとつ、これはかなり特殊な感想になるかもだけど、遺体安置所から火葬場への搬送について。映画の中では、当初釜石市保有している焼却炉も被災してしまって火葬ができなくて、それがようやく修復できた際、まずはすでに震災前に亡くなってた人から火葬を行うため、この遺体安置所に収容されてるひとについては一日に3人くらいしか火葬場に運べませんという説明がされいました。ほいじゃ、そんときどういう順番で焼いてもらえてたんだろう。でもって、地元の葬儀会社二社が業務を引き受けてたそうなのですが、こんときの料金ってどういうふうになるんだろう、だなんてことも考えながら観ていました。


この映画のなかでも、くりかえされていた「私たちには"言葉"がある」というメッセージ。奇しくも、火曜の夜のNHKの「いつか陽の当たる場所へ」でもこのメッセージがありましたっけ。せめて自分は、誰かに言葉をかけることをケチらないでいたいとそう強くおもいました。